午後のお茶時間、
これを読む暇があった。「ほんやら洞の青春」(高校編)として、現在は関西学院大文学部の教授が書いている文章の出だしが興味深い☺️
『…私は1972年の4月に、京都府立洛北高等学校に入学した。
洛北高校は「ほんやら洞」のあった出町から、少し北に位置する学校である。
「ほんやら洞』ができたのも、同じ1972年の時だったと思う。
……
洛北高校というのは、当時かなり自由な学校で、制服等は当然のように無く、休み時間の外出や昼食の外出はもちろん、授業への出席も(もちろん正式に認められていた訳ではないが)自由であり、先生たちも今よりは自由だったのか「休講」も多かった。
要するに、高校でありながら、大学と同じような雰囲気で、生徒には好きに使える時間があり、行きたい時に行きたいところへ出かけるということに対しても、さほど大きな制約の無い校風であった。………』
多分、この方は私の1年先輩である。
当時の京都の公立高校はおおむねこの洛北高校に近かったように思う。
ただし、京都市内の公立は私服だったけど、府下の公立は全て制服だった(田辺高校が長いこと私服やったけど)
そのへんが、都会と田舎の違いだったなあ。
府下南端の木津高校生だった私は、部活も終えた3年の夏休みから、当時仲よかった野球部顧問の先生に頼まれてスコアラーとして後輩野球部の練習試合や、秋季リーグ戦に参加していた。
木津高校にしては、メンバーが揃っていてけっこう強かった。
負けた試合は、平安高校、東山高校くらいだったと思う。
スコアラーとして参加しだしてから負けがほぼなかったんで、勝利の女神かのように、後輩野球部員から試合の度に
「絶対、来てください‼️」
と誘われるのも嬉しかったね。
受験生でありながら、秋季リーグ戦が終わるまで全試合のスコアラーとして参加した。(そのためではないが、受験は見事失敗する😰😰)
夏の終わりの練習試合は、洛北高校。
田舎の高校生やったけど、大流行だったアイビー調でまとめていた私。(ボタンダウン白シャツ・スカートは制服やけどベルトはアイビー風・3本ラインソックスにローファーシューズ)
ドヤ顔で洛北高校のグラウンドへ。
そこへ、洛北の女子マネージャーが現れた。
ヒャ〜、負けた〜❗️
白のカーデガンを袖を通さず羽織っていて、それをさりげなく肩からはずして挨拶‼️
なんと黄色のノースリーブワンピースだったのだ❗️
スラリとしたスタイル、髪はひとつにまとめていたような。サンダルは白。
私は、田舎ものであることをそれから以後も色んな場所で痛感する経験はあるのだが、人生一番の田舎もの認識は、この時であった😨
先の文章を読んでいて、現在の京都公立高校の変貌のすさまじさを実感。
唯一、鴨沂高校(おおき)が私服で頑張ってたけど、3年くらい前に制服になったり(定時制・通信制は違うけどね。)、高校3原則は、とっくに消えた。
洛北高校も、中・高一貫校として、進学校化している。
田舎の木津高で、授業さぼりまくって行っていた場所、グラウンド向こう側にあった内田山も、分譲地になり無くなってしまったし😓
鴨沂高校も、御所東のメチャメチャ素敵な場所から移転ちゅうか、無くなる?なんて言うてるし。
『自由な校風』だった京都の公立高校はどこへ行く⁉️
【本日の Good job ✨ 】
なんとハナがやってるレストランのひとつ、『うま うま』に行ったことがある❗️という話になり…
名前聞いといた。メキシコ帰ったらレストランにまた行くって❗️
アヤは、まだちゃんと大学生と別れず付きあってる。
大学生のお兄ちゃん、よろしゅう頼むで‼️
A子がいても平気でイチャつくなんてね。アヤも、変わったな。よしよし。